ミシャグジ

ミシャグジ

ミシャグジの別名

  • 御作神
  • 御作神
  • 御作神
  • 御佐久神
  • など。また、伝播していった先で百数種の名前が使われており、仏教と混交して、オシャコジ薬師などの派生も存在する。

ミシャグジの御神徳

ミシャグジの伝承地

  • 主に諏訪地方

ミシャグジの継続

  • 東日本一帯(東京の『石神井』に代表されるように『シャクジ』『シャクチ』という名前が入っている土地にはミシャグジ神が祀られていた場所が多い)

ミシャグジの鎮座

ミシャグジの解説

ミシャグジ ミシャグジ

諏訪に根付く謎の神、ミシャグジ神。縄文からの信仰が色濃く残ると言われるミシャグジ神。古事記や日本書紀にも出てくる天孫降臨のもう一つのお話とは・・・!

ミシャグジ神は謎の神ではない。

ミシャグジ神というと謎の神というイメージが強いが、実は全く謎の神というわけではない。なぜかというと、ミシャグジ神(本来ならば『ミシャグチ』であるが信仰の伝播により名前が変遷してゆき、『ミシャグジ』の方が正式名称として通用しているという逆転の現象が起きている)を古代から祀ってきた一族の末裔がミシャグジ神はどのような神かということを、「神長官守矢史料館のしおり/平成三年発行」(以降は『しおり』と略す)の中で語っているのである。

この『しおり』の第一部、「守矢神長家のお話し」の中で守矢神長官家(詳しい説明は次の章に譲る)七十八代目、守矢早苗氏が語るところによれば、
諏訪大社の祭政体はミシャグチ神という樹や笹や石や生神・大祝(おおほうり)に降りてくる精霊を中心に営まれます」

とあることから、ミシャグジ神は「樹や笹や石や生神・大祝(おおほうり・説明は次の章に譲る)に降りてくる精霊」であることが分かる。(この『しおり』において守矢早苗氏は一貫して『ミシャグチ神』と語っていることから本来は『ミシャグチ』の音であったことが伺える)

また、ミシャグジ神が蛇体の姿で表現されることが多いことから、同じ諏訪の蛇神であるといわれる白蛇ソソウ神との混交も指摘される。しかし、日本の蛇信仰について興味深い考察をしている吉野裕子氏はミシャグチを「御赤口」と解し、御は尊称であり、本体は「赤口」であることから「ミシャグチ」は本来赤蛇であるが、尊く、また恐るべき存在の名をそのまま「赤口」と記してしまうことを避けて「ミシャグチ」という音だけが残ったがゆえに、様々な表記の揺れあるのだと推測している。

白蛇か赤蛇か、実はそのこと自体に深い意味はない。古い文献を紐解いても常陸国風土記のヌカヒメ伝承や大物主が蛇神であるという伝承から古代日本では蛇に対する信仰が深かった。諏訪地方もまた、蛇を頭にのせた女性土偶などが発掘されており、蛇信仰が濃厚だった。

実際、諏訪大社前宮境内にある「御室社」の前には、「現人神の大祝や神長官以下の神官が参籠し、蛇型の御体と称する大小のミシャグジ神とともに「穴巣始」といって冬ごもりをした遺跡地である」という説明看板が出されており、諏訪大社上社で正月に行われる「御頭御占神事」は、土室の中のミシャグジ神の神体といわれる巨大な藁蛇の前で行われる。また、諏訪大社宝物館に展示されている「諏訪大明神御神画像」には大祝の絵姿とおぼしき、衣冠の姿絵、鎌、蛇体らしきものが描かれている。これらから、ミシャグジ神が蛇神として古代から信仰されていたことはほぼ間違いないといっていいだろう。

また、建御名方神が諏訪へ来る以前に土着していた「漏矢神」と同一視も散見されるが、それは、守矢早苗氏が伝える事実と比較すれば間違いではなかろうか。
そもそもミシャグジ神は「守矢一族」の守り神的存在の精霊であった。その守矢一族の先祖が後に建御名方神と争うことになる『漏矢神』(=現人神・建御名方神に表される『出雲族』と戦った諏訪の土着の狩猟系先住民族)である。(この系譜は守矢早苗氏が口伝として伝えて来た『守矢氏系譜』(『しおり』に掲載)に明記されている)この順を踏まえればミシャグジ神と洩矢神は別物であると理解できる。

もう一つの国譲り伝承

諏訪にはもうひとつの国譲り伝説が伝えられている。

一般的に、国譲り伝説といえば、大国主が天津神に葦原中国を差し出すエピソードである。この際に、大国主の息子である建御名方神が了承せず、天津神である武甕槌命と力比べをして敗北し、諏訪まで逃走し、「この地からは出ないから殺さないでくれ」という命乞いをする。(このエピソードが載っているのは古事記のみである。日本書紀にも出雲国風土記にも載っていない)
この建御名方神の諏訪逃走劇を別の角度から考えると、諏訪という土地の特殊性が浮き彫りになる。

つまり、建御名方神が諏訪へ逃げ込んだ、という逸話は、諏訪から見れば、建御名方神に象徴される出雲系の稲作民族の侵入に他ならない。建御名方神率いる稲作民族が諏訪に侵入した際に、洩矢神に象徴される狩猟系先住民族が天竜川河口で迎えうったという言い伝えが諏訪には残っている。この際に建御名方神は藤の蔓を手に、洩矢神は鉄の輪を手に戦うのだが結局、洩矢神は負けてしまう。古事記で負けた神が諏訪では勝つ側として描かれている。

しかし、実情は「洩矢神は負けることによって出雲系稲作民族との共存、もしくは容認という形を選んだ」のであり、決して諏訪が出雲系稲作民族に占領されたわけでなさそうだ。その証拠に、「御柱」という古代祭祀の形式が現在まで残っており、洩矢神を祖とする神長官(後述)を中心とする諏訪独特の祭政体は明治5年まで続いていた。もし、本当に洩矢神を筆頭とする諏訪の勢力が負けていたなら、出雲と、その背景にある大和の力によって諏訪は現在のような特殊な古代祭祀形態は保っていなかったはずである。

神長官 守矢一族と現人神 諏訪氏

前述の通り、建御名方神が諏訪へ侵攻していた際に、迎えうった洩矢神の末裔が守矢一族である。神長官を含む五官祝(諏訪大社上社における神職の名称。神長官、祢宜大夫、権祝、擬祝、副祝)という制度は神社が国家神道へと変遷し制度改革の行われた明治初期になくなってしまったが、その血が絶えていないことは記述してきた通りだ。『しおり』に寄稿している守矢早苗氏は洩矢神から七十八代目である。参考までにあげれば、出雲大社の千家宮司が現在、八十四代、海部氏家系図で有名な籠神社宮司は、現在、八十二代である。いずれの社家にも劣らない。

守矢氏の祖先は、現在の前宮周辺に居を構えていた。その後、建御名方神の子孫である諏方氏に前宮を譲ると、現在の守矢家と守矢史料館のある高部扇状地に移る。この高部扇状地そのものが高部遺跡であり、縄文時代から中世までの人々の生活跡が発掘されている。古墳時代には諏訪地方の豪族の墓城でもあった。実際、この付近を歩いたが扇状地のあちこちに古墳や小さな祠(どんな小さな祠にも御柱が立っている)が点在し、少し奥に分け入れば磐座信仰の名残を残す小袋石が祀られている。古代よりここが重要な信仰の場所であったことが伺える。

前述の通り、諏訪大社の祭政体は現人神・諏訪明神に降りて来るミシャグジ神を中心に営まれてきた。そのミシャグジ神の祭祀権を持っていたのが守矢神長官家であり、ミシャグジ上げやミシャグジ降ろしの技法を駆使して祭祀を取り仕切ってきた。この守矢家の神長官の秘法は、「真夜中、火の気のない祈祷殿の中で、一子相伝により『くちうつし』で」(『しおり』の守矢早苗氏の文章より引用)伝承されたという。この一子相伝、くちうつしの秘法は七十六代実久氏で終焉を迎える。

一方、建御名方神の子孫である諏方氏は「大祝」という生神(つまり諏訪明神の依代)の地位に着く。諏方氏が最初に居住し、祭祀を行っていたのが現在の前宮である。ここに諏訪大社の発祥を見ることができる。

しかし、大祝は事実上の祭祀権を握ることはなかった。なぜならば、諏訪氏が諏訪明神になるには、神長官守矢氏の力が必要であった。筆頭神官である神長官の降ろしたミシャグジを身につけて初めて、現人神大祝=諏訪明神になれたのだ。そして神降ろしの力や、神の声を聞く力は神長官のみが持つとされており(つまりミシャグジ祭祀は神長官のものであったために)この地の信仰及び政治の実権は守矢家が持ち続けていたのだと守矢早苗氏は言う。

諏方氏はその後、系譜が曖昧になるが、伝承によると、806年、諏訪明神が桓武天皇の皇子、有員親王に神衣を着せて「我に体なし、祝をもって体をなす」と神勅をくだし、大祝の中興の祖となる。現在の諏方氏の祖はここに起原を持つ。その後、また系譜が曖昧になるも、十六代頼信から現在まで諏方氏は続いている。

文章担当あさみ

参考資料

  • 社伝

挿絵担当伊助提督(元メンバー)

参考資料

  • 社伝

挿絵解説

なし

ミシャグジに関連する神様

ミシャグジ ミシャグジ