七福神(しちふくじん)

しちふくじん

七福神(しちふくじん)

七福神(しちふくじん)の別名

  • 各々

七福神(しちふくじん)の御神徳

七福神(しちふくじん)の伝承地

  • 各々

七福神(しちふくじん)の継続

  • 各々

七福神(しちふくじん)の鎮座

七福神(しちふくじん)の解説

しちふくじん

七福神(しちふくじん) 七福神(しちふくじん)

お正月になると七柱の神仙や宝船の絵を見ることがあります。
開運みくじをひいたら打出の小槌や亀などの縁起物がついてくることも。それらは七福神に由来しています。
では、七福神とはいったい何者なのでしょうか。

七福神とは

七福神とは七柱の神仙、すなわち恵比寿(えびす)、大黒天(だいこくてん)、弁才天(べんざいてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、布袋(ほてい)、寿老人(じゅろうじん)、福禄寿(ふくろくじゅ)をひとくくりにして信仰するときの総称です。
そのご利益はさまざま。それは七柱それぞれに個性豊かな神格やいわれがあるためです。
あまり詳しく記述すると長くなってしまいますので、かいつまんでご紹介します(挿絵左側から順番に紹介します)。

●恵比寿(えびす)
烏帽子をかぶり、右手に大きな鯛、左手に釣竿を持つ姿で描かれます。
七福神の中では唯一の日本古来の神さまです。
その正体をめぐっては諸説ありますが、おもに蛭子命という説と事代主神という説のふたつに分けられます。
古くは漁業の神として祀られましたが(※1)、次第に商売繁盛の神として信仰されるようになりました。
また、恵比寿は「夷三郎」と呼ばれることもありますが、「日神月神の次に生まれたから三郎という」説は俗説で、もともとは違う二柱の神が混同されたのではないかとも言われています。
また、平安時代には「恵比寿・大黒」と二柱並べて祀られました。

(※)古来、えびすとは「海からくるもの(外来のもの)」を指し、波によって海から流れ着くものは福をもたらすものとされ祀られていました。詳しくは「蛭子」の記事で扱われていますのでそちらをご覧下さい。

●大黒天(だいこくてん)
仏教の神。
唐僧義浄三蔵『南海寄帰伝』の記事によれば、密教では台所を守る神として祀られており、常に油で拭われているために黒くなっていて、食事の際は香を焚き食事を並べ供えられていました。
また、軍神としての性格を持ち、その姿は顔面が青黒く、背が低くて恐ろしい出で立ちで描かれています。
日本には前者のイメージとともに遣唐使によって取り入れられ、のちに比叡三面大黒天など福をもたらす神として祀られるようになりました。
時代が下ると、「だいこく」という音が通じるため、出雲大社の大国主命と習合されます。
現在七福神として親しまれている大黒さんの柔和なイメージ(頭巾をかぶり、大きな袋を担いで打出の小槌を持って微笑みを浮かべている姿)は、「因幡の白兎」で見られる大国主命の姿を引き継いでいるといえます。
米俵に座っている姿で描かれることもあります。

●弁才天(べんざいてん)
大弁才天とも(※1)。
仏教の神様として日本へ取り入れられ、厳島、江ノ島、竹生島などに代表されるように水辺で祀られています。
神仏習合により市杵島姫命と習合されましたが(※2)、のちに仏教の神・吉祥天と混同され、財をもたらす福神として七福神に数えられるようになりました。
琵琶を手にした美しい女神として描かれます。

(※1)弁財天と表記されることがありますが、七福神として数えられるときにのみ用いられます。
(※2)宇賀神(ウカ、またはウケ=食べ物の神)と習合されるとの記述もあります

●毘沙門天(びしゃもんてん)
甲冑に身を包み、厳しい顔をした出で立ちで描かれ、鉾や仏塔を手にしています。
仏法を守護する四天王の一柱として北方警護を担い、四天王の中では最強の力を持つとされました。
日本においても四天王として取り入れられ、守護神として篤く信仰されます(※)。
しかし次第に福神としての性格が強くなり(※2)、七福神として数えられるようになりました。

(※)四天王として信仰されるときは「多聞天」とも。
また、上杉謙信が毘沙門天の「毘」を旗印にしたように軍神としての一面もあったと考えられます。
(※2)たとえば『今昔物語』には鞍馬寺の毘沙門天が僧に黄金をさずける話があります(巻第17の44話「僧、毘沙門天の助けによりて、金を産みせしめ便りを得たる話」)

●布袋(ほてい)
中国に実在した仏僧で、唐末の契此をはじめ、宋の了明、元の布袋、元末の棗陽にいた張氏の男がモデルとして挙げられています。
丸々太った半裸姿で袋を担ぎ、嬉しそうな笑顔を浮かべており、こどもと共に描かれることも。
なぜ七福神に数えられるようになったかは定かではありませんが、弥勒菩薩の化身と言われていたこと、袋を持った柔和な姿が大黒天に通じるからなど諸説あります。

●福禄寿(ふくろくじゅ)
頭が異様に長く、福耳と豊かな白髯をたくわえた背の低い老人の姿で描かれます。
この姿は「寿星(南極老人星)」という星の人格化であり、宋代のイメージとされています。
名前の由来は道教(中国古来の思想)で掲げられた理想(「福」=子孫繁栄や出世、その他いろいろな福・「禄」=財産・「寿」=長寿)を合わせたものであるといわれます。
鶴や亀とともに描かれていることもあります。

●寿老人(じゅろうじん)
もとは道教の神で、福禄寿と同じく「寿星(南極老人星)」を人格化した神です。
黒い頭巾をかぶり杖をつく老人の姿は唐代のイメージで、杖に結び付けられた一軸の巻物には人間の寿命が記されているといわれています。
また、鹿とともに描かれることも。日本に取り入れられたあとにもこの姿が引き継がれているといえます。
福禄寿と同一の神と言えますが、日本では別々の神としてそれぞれ七福神に加えられました(※)。

(※)なお、同一の神を二柱として数えるのを嫌った江戸の識者が寿老人を省き、猩々や吉祥天を加えた例もあります。

七福神の発祥

以上七柱は七福神と並び称される以前にも、それぞれ個別に信仰されていました。
それではいつから七福神とまとめられるようになったのでしょうか。

七福神の発祥については、実ははっきりとはわかっていません(※1)。
山本信有は「七福神考」(寛政11年〈1799〉)に「その始まりはわからないが、数百年前からすでにあった」と記しています。
古くから「恵比寿・大黒」や「比叡山三面大黒天(※2)」などのように何柱かをまとめて祀る例があり、もともと似た性質の神をひとまとめにするという風習があったのではないかという見方もできます。しかし結局のところ、どういう経緯でその七柱が選ばれたのかも明らかではありません。

というのも、江戸時代初期からすでに七福神を題材に多くの著作や絵が描かれましたが、弁才天が吉祥天になっていたり、寿老人のかわりに猩々が加えられていたり、七福神といいながらまったく違う神さまを添えて八柱になっていたりと、その顔ぶれが必ずしも一定ではないからです。さまざまな紆余曲折の中で次第に現在の形に整えられていったと言えるでしょう。

江戸後期になると、七福神参りが流行するようになります。「享和雑記」では次のように書かれています。

近ごろ正月初出に、七福神参りといふこと始まりて、遊人多く参詣することとなれり。その七福神とは、不忍の弁才天、谷中感応寺の毘沙門、同所長安寺の寿老人、日暮の里青雲寺の恵比寿・大黒・布袋、田畑西行庵の福禄神なり。近ごろ年々にて福神詣でする人多くなれり

この記述を見ると、この頃には七福神の顔ぶれや参拝の順路がある程度固められていたということが想像できます。
その後も七福神参りについてさまざまな文献に記述が残されており、いかに盛んに行われていたかがわかります。
この風習は今も残り、全国各地で行うことができます。

また、七福神は縁起物として宝船とも結び付けられるようになりました(3)。
現在でも七福神が財宝とともに船に乗っている絵柄を見ることができます。

(※1)七福神が成立したのは一般的には室町末期~江戸初期というのが通説とされています。
なぜ「七」なのかについても様々な説がありますが、仁王護国般若波羅蜜経受持品に説かれた「七難即滅七福即生」が由来とする説が通説となっているようです。このほか、「三景」「八景」、「七賢」など、並べ立てて遊ぶのが室町時代に流行し、七が選ばれたとする説、同じく室町時代に盛んになった禅宗の特に優れた七人の僧「七賢」を描く「竹林の七賢人」が水墨画の人気のモチーフになり、瓊春という人物がその七賢人に着想を得て当時人気のあった神様を描いたのがはじまりという説、日本古来より「七」は「八」と並んで特別な数字だったからだという説などがあります。
喜田貞吉「七福神の成立」『民衆宗教史叢書』第20巻,雄山閣出版,1987
宮田 登編『七福神信仰事典』戎光祥出版,1998
(※2)比叡山延暦寺の大黒堂にある本尊で、大黒天と毘沙門と弁財天が一体となった姿をしています。
(※3)この絵を枕の下に入れて眠ると縁起の良い初夢が見られるという俗信があり、それ自体は室町時代にすでに始まっていたようです。それが江戸にも伝わり、いつしか七福神が財宝とともに船に乗り込むようになりました。明治時代後期に入ると宝船のほかに「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな(長き夜の 遠の睡ねむりの 皆目醒めざめ 波乗り船の 音の良きかな)」という回文も添えられるようになり、三回唱えてから眠るとよい、と言われたそうです。(宮田 登編『七福神信仰事典』戎光祥出版,1998)

『七福神伝記』

ところで、仏教、道教、神道というように出自がバラバラな七柱の神が七福神としてまとめて信仰されるようになったというのはよく考えると不思議です。
なぜそのようなことが起きたのかを掘り下げるには神仏習合や民間信仰の構造にまで手を広げなければならないことが予想されるので本稿での取り扱いはできませんが、特定の宗教の枠組みにとらわれないおおらかさが当時の民衆にはあったのかもしれません。

しかし、日本古来の神様が七柱の中で恵比寿のみということに不満を持つ学者は少なからずいたようです。
増穂残口は「七福神伝記」(元文2年〈1737年〉)を通じて、外来の神ではなく日本古来の神々からなる七福神を提唱しました。

・大己貴命(大国主命のこと)
・事代主命
・厳島大明神(市杵島姫命のこと)
・天穂日命
・高良大明神(武内宿禰のこと)
・鹿島大明神(武甕槌命のこと)
・猿田彦大神(猿田彦命のこと)

この七柱にそれぞれ商売繁盛、福禄、慈愛、人徳、長寿、息災、安全という福徳をあてはめており、当時流行していた七福神に対応させていたであろうことは興味深いです。
結局世間に定着することはありませんでしたが、一口に「福」と言ってもその形も求め方もさまざまだといえるでしょう。

文章担当笑万

参考資料

  • 山本信有撰「七福神考」寛政11年刊〈1799〉,『神祇全書(二)』
  • 増穂残口著「七福神伝記」(元文2年刊〈1737〉,『神祇全書(二)』
  • 摩訶阿頼耶撰「日本七福神伝」(元禄11年刊〈1698〉)
  • 柳川亭著「享和雑記」,『未刊随筆百種(二)』

挿絵担当こなゆき、伊助提督、大藤やすみ、つくよみん、烏目ケイ、緋呂、しわ

参考資料

  • 山本信有撰「七福神考」寛政11年刊〈1799〉,『神祇全書(二)』
  • 増穂残口著「七福神伝記」(元文2年刊〈1737〉,『神祇全書(二)』
  • 摩訶阿頼耶撰「日本七福神伝」(元禄11年刊〈1698〉)
  • 柳川亭著「享和雑記」,『未刊随筆百種(二)』

挿絵解説

特になし

七福神(しちふくじん)に関連する神様

しちふくじん

七福神(しちふくじん) 七福神(しちふくじん)