八幡神(応神天皇)

はちまんしん

八幡神(応神天皇)

八幡神(応神天皇)の別名

  • 誉田別尊(ほむたわけのみこと)
  • 大鞆和気命(おおともわけのみこと)
  • 誉田天皇(ほむたのすめらみこと)
  • 胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)
  • 凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)
  • 八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)
  • 護国霊験威身神大自在王菩薩(ごこくれいけんいりきじんづうだいじざいおうぼさつ)

八幡神(応神天皇)の御神徳

八幡神(応神天皇)の伝承地

  • 福岡県糟屋郡宇美町
  • 福岡県福岡市
  • 奈良県橿原市大軽町

八幡神(応神天皇)の継続

  • 仲哀天皇(父)
  • 神功皇后(母)
  • 仁徳天皇(子)、額田大中彦皇子(子)、大山守皇子、菟道稚郎子皇子(子)、八田皇女(子)、稚野毛二派皇子(子)、隼総別皇子(子)、草香幡梭皇女(子)

八幡神(応神天皇)の鎮座

八幡神(応神天皇)の解説

はちまんしん

八幡神(応神天皇) 八幡神(応神天皇)

第15代天皇応神天皇。
全国に4万社(11万社有るとも言われ日本一多い神社と言われることもあります。)ほどあるとされる八幡社の主祭神であり八幡大神や八幡大菩薩として知られます。

八幡大神は、武家の神、託宣の神、国家鎮護の神など武家から朝廷、庶民にまで広く信仰されている神様です
承久記には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照皇大神に次ぐ皇室の守護神とされ皇室からは第二の宗廟として崇敬されています。

生前の応神天皇

応神天皇の母である神功皇后は三韓征伐の帰路にて筑紫の宇美(福岡県糟屋郡宇美町)で応神天皇を出産し志免(福岡県糟屋郡志免町)でお紙目を代えたと伝えられています。

応神天皇の父は、仲哀天皇とされていますが「是に皇后、大神と密事あり」と住吉大社神代記に記述されている事から実は住吉大神と神功皇后の間に産まれたとの説もあります。また、住吉大神は「おしなべてこの国は、皇后(神功皇后)の胎内にいらっしゃる御子の統治なさる国である」と神託を述べられてのちに身籠った子が応神天皇です。応神天皇の名は、諡号として送られた名であり古事記では品陀和気、日本書紀では誉田別と記されています。神功皇后が三韓征伐に出征した際には胎内にいながらにして霊威を発揮したといい胎中天皇とも呼ばれます。

出生後、大和に戻り神功皇后の摂政の元で皇太子となり皇后の死後15第天皇として即位。即位後は軽島の明宮を造営なさいました。
41年間の治世には、百済からの帰化人を受け入れ、馬や剣や鏡を献上されるなど中国の文化を積極的に導入して日本文化の基板を築いたとも言われております。

応神天皇と八幡大神

もっとも古い資料で「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」(884年)に八幡神は品田天皇御霊であると記述がありこの頃にはすでに応神天皇が応神天皇であると証明されています。

鍛冶翁伝承

569年大分県の小椋山に一つの体に8つの頭が付いている奇妙な鍛冶の翁が居ました。その翁を見ると5人行けば3人が10人行けば5人が死だという。そこで、大神比義が見に行ったら翁は見えず、金色の鷹が林の上にいた。比義が「誰かによって鷹に変えられたのか、自分の意志で変わったのか」と問うと、忽ち金色の鳩となって比義の袂の上に飛び来たった。

神が人を救わんとして自ら変身されたことを知った比義は、3年間の間五穀を絶ち、弊を捧げた。すると泉のかたわらの笹の上に光かがやく3才の童子があらわれました。童子は「われは誉田の天皇広幡八幡麿なり。わが名は護国霊験威力神通大自在王菩薩で、垂迹せし者也」と告げるとたちまち黄金の鷹になって駅館川の東岸の松の上にとどまったといわれます。その地に八幡大神を祀った事が宇佐八幡宮の起源とされています。

隼人出兵

720年、九州地方で隼人らの大規模な反乱が起こる。
反乱鎮圧のため朝廷はて宇佐八幡に神託を仰いだ。八幡神は、「われ征ゆきて降くだし伏おろすべし」と自ら征討に赴き宇佐八幡宮の禰宜が指揮する八幡神軍が出兵しました。

八幡神軍は八幡神を神輿(みこし)に乗せ、仏道修行僧らが呪文を駆使し、傀儡(くぐつ:操り人形のこと)舞を用いて大活躍を見せた。
そののち、八幡大神は「隼人らを多く殺したる報いに、年ごとに放生会を修すべし」と託宣を下された。放生会は現在も仲秋祭として10月体育の日、前日、前々日、3日間宇佐八幡宮にてとり行われております。

厭魅事件と道鏡天位託

東大寺大仏建立のおり、八幡大神は「われ天神地祇を率い必ず成し奉る。銅の湯を水とし、我が身を工事の草木や土に交えて障害を無くす」と盧遮那仏を守護の託宣を出され天平勝宝元年(749年)に都へと行幸します。しかし、その5年後八幡大神に奉仕する神職が呪術を使って人を殺そうとしたとの疑いから神職らは流罪となり八幡大神は「汝等穢はしくして過有り。神吾今よりは帰らじ」と託宣して四国の伊予国宇和嶺(現愛媛県八幡浜)に移座したのち、大尾山に帰還されました。

そんな中、大宰主神習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」宇佐八幡宮からの神託をうけたと奏上、それを聞いた称徳天皇は、和気清麻呂を呼び 昨夜の夢に、八幡神の使いが現れ「大神は天皇に奏上することがあるので、尼の法均を遣わすように」とおっしゃり和気清麻呂は姉の代わりに宇佐へおもむき神託をうけた所「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上。翌年に称徳天皇が崩御し道鏡は失脚いたしました。

八幡大神と神仏習合

鍛冶翁伝承の章で書いたように572年に八幡大神は「護国霊験威力神通大自在王菩薩」と名乗られたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかります。781年には朝廷は宇佐八幡宮に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大神に対して八幡大菩薩の神号を贈りました。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。

武家の守護神

八幡大神は弓矢の神とされるなど武家との関わりが非常に強い神様です。
特に源氏とはもっとも縁が深く、有名な話では源義家が男山の石清水八幡宮にて元服した事です。義家は元服後に八幡太郎義家と名乗り八幡大神は源氏の総氏神ともされました。
源氏の他にも将門記によれば、八幡大菩薩は平将門に対して「新皇」の地位を保証する神託を出すなど様々な武門と関わりを持っています。

文章担当清水 宏積

参考資料

  • 宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起
  • 古事記

挿絵担当こなゆき(元メンバー)

参考資料

  • 古事記

挿絵解説

なし

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