宗像三女神

むなかたさんじょしん

宗像三女神

宗像三女神の別名

  • 宗像三神(むなかたのかみ)
  • 宗像神(むなかたのかみ)
  • 道主貴(みちぬしのむち)
  • 胸形神(みちぬしのむち)
  • ■三女神それぞれの名前
  • 田心姫神(たごりひめのかみ)(多紀理毘売命 田霧姫命 奥津島比売命)
  • 湍津姫神(たぎつひめのかみ)(多岐津姫神 田寸津比売命)
  • 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)(狭依毘売命 市寸島比売命)

宗像三女神の御神徳

宗像三女神の伝承地

  • 福岡県宗像市

宗像三女神の継続

  • 天照大御神(親)※須佐之男命の説もある
  • 田心姫神 大国主神(夫) 阿遅鋤高日子根神(子)高比売命(子)……「古事記」
  • 湍津姫神 大己貴神(大国主神の別名/夫) 八重事代主神(子)高照光姫命(子)……「先代旧事本紀」

宗像三女神の鎮座

宗像三女神の解説

むなかたさんじょしん

宗像三女神 宗像三女神

玄界灘の航海を守り国家から崇敬を受けた宗像三女神について詳しく紹介します。

誓約(うけい)で化生した三女神

火之迦具土神を生んで黄泉の国に神避った伊邪那美を追いかけた伊邪那岐は、醜い妻の姿を見て逃げ出してしまいます。そして、黄泉の国の穢れを落とすために筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわぎはら)で禊を行いました。伊邪那岐の持ち物や垢から二十三神もの神々が生まれたあと、左目を洗ったときに生まれたのが天照大御神、右目を洗ったときに生まれたのが月読命、鼻を洗ったときに生まれたのが健速須佐之男命で、この三柱の神を三貴神といいます。伊邪那美は三貴神にそれぞれ、高天原、夜の世界、海原を治めるように委任しますが、健速須佐之男命だけが海原を治めず泣きじゃくり、母のいる根の堅洲国(ねのかたすのくに)に行きたいと駄々をこねました。そこで、父の伊邪那岐は大変お怒りになり、須佐之男命を追放します。

須佐之男命は、殊勝にも暇乞いをする前に姉に報告をしようと高天原に上って行きますが、姉の天照大御神は、弟が高天原を奪いに来たのだと思い、戦の準備をして待ち受けます。やってきた弟に「おまえは何をしにやってきたのだ」と問うと須佐之男命は正直に、自らに邪心のないこと、父から出て行けと言われたので暇乞いをするためにやってきたのだと答えます。その潔白を証明するために、二人は誓約(うけい/あらかじめ決め事をしておいて、その結果によって神意を占う方法)をすることになりました。

天安河を真ん中にして立つ姉と弟。
まず、天照大御神が須佐之男命の腰に付けていた十拳剣(とつかのつるぎ)をもらい受け、三段に折り、天真名井(あめのまない)の水をふりそそいで口の中に入れて噛み砕いて吹き出すと三柱の女神が生まれました。息吹の霧から生まれたのが多紀理毘売命(田心姫神)、次に生まれたのが市寸島比売命(市杵島姫命)、次に生まれたのが多岐津姫命(湍津姫神)です。

次は須佐之男命の番です。須佐之男命は天照大御神の身につけていた五つの勾玉をもらい受け、口に入れて噛み砕き、五柱の神々を生みました。左の角髪(みずら)に巻き付けている勾玉から生まれたのは正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)。右の角髪に巻き付けている勾玉から生まれたのは天之菩卑能命(あめのほひのみこと/出雲国造の祖先)。かずらに巻き付けている勾玉から生まれたのが天津日子根命(あまつひこねのみこと)。左手に巻き付けている勾玉から生まれたのが活津日子根命(いくつひこねのみこと)。右手に巻き付けている勾玉から生まれたのが熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)。

この誓約で天照大御神が生み出した三女神が宗像三女神です。
(三女神が生まれた順番は古事記、日本書紀、三女神を主祭神とする宗像大社の社伝それぞれに異なりますが、ここでは古事記の説をとらせていただきました。)

沖の島の沖津宮に鎮座する田心姫神、別名多紀理毘売命は、天照大御神が吹き出した霧と関係のある名前と言われています。
大島の中津宮に鎮座する湍津姫神の「タキツ」は玄界灘の荒ぶる激流からの連想からと言われています。
辺津宮に鎮座する市杵島姫命の「イチキ」は「イツク(斎く)」の語源であるといわれ、「神として斎く島の巫女」の意味があると言われています。

道主貴

三女神は、日本書紀の中で「道主貴(みちぬしのむち)」という別名で呼ばれています。「貴」は最も貴い神様に贈られる尊称で、記紀の中でこの「貴」が使われるのは、大日靈貴(おおひるめのむち/天照大御神の別名)と大己貴(おおなむち/大国主神の別名)の二柱だけですから、当時、いかに国家から篤い崇敬を受けていたか伺えます。

もともとは北九州地方を基盤とする海人集団、宗像君(むなかたのきみ)の信仰する海の神でした。玄界灘は、総社である辺津宮のある北部九州本土から中津宮のある大島、沖津宮のある沖の島を結び、朝鮮半島・大陸に至る海路(=日本書紀では「海北道中」と記されます)、すなわち外交の要衝であると同時に荒ぶる危険な航路だったことから、4世紀後半以降、10世紀に至るまで、国家全体で宗像神を祀るようになっていきます。朝廷が祀ることによって、一地方の神様が有力な航海安全の神様になったのです。

一方、神話の中ではどのように描かれているのでしょうか。

日本書紀、神代巻にはこのようなくだりがあります。

汝三神、宜降居道中、奉助天孫而爲天孫所祭也。


「筑紫の国の宗像の三宮に降臨し、歴代の天皇のまつりごとを助け、祭祀を受けられよ」

天照大御神が三女神に下した神勅(神様の出した命令)です。この神勅により、三女神は宗像の地に鎮座し、玄界灘の航海安全の神、また国家守護の神として篤く崇敬を集めるようになりました。

「奉助天孫而爲天孫所祭」の一文の書かれた額は、宗像大社の三宮それぞれの拝殿に掲げられ、今でも一日も欠かすことのない祈りが捧げられています。

絶世の美人 市寸島比売神

三女神の中でもっとも有名なのが市杵島姫神です。
この女神さまは、弁天様とも呼ばれ、私たちの身近なところに祀られています。

仏教伝来以降、日本では仏様と神様が緊密な関係を保ちながら祀られてきました。神仏習合の本地垂迹(日本の神様は仏様の仮の姿である)の考えのもと、市杵島姫神はインドの神様である弁才天=弁天様と同一視されました。結びついた理由として、まず、水に関わる神様であるということ、美人であることがあげられます。また、弁才天が財宝の神、美の神、琵琶を持った芸能の神であることから、市寸島比売神にもそのような性格が付与されたようです。

近世に七福神信仰で弁才天が広まると、弁才天の方が有名になり、宗像三女神の影は薄くなります。明治にはいり、神仏判然(神仏分離)が命じられると、三女神を復活させる神社もありましたが、そのまま弁天様として祀られるところも多く残り、現在に至っています。

安芸の宮島(厳島神社) 近江の竹生島(宝厳寺) 江ノ島弁財天(江島神社)は、 日本三大弁財天(諸説あり)として古来、有名です。

海の正倉院

田心姫神が鎮座する沖津宮のある沖ノ島は、九州と朝鮮半島とを結ぶ玄界灘のほぼ中央にあり、古代より航路の道標としても神聖視されていました。島全体が祭祀の場所だったところで、昭和29年から昭和46年にかけて三次の発掘調査が行われ祭祀の実体があきらかになりました。調査によって見つかった神宝は約十万点、そのうち八万点が国宝に指定されました。その規模の大きさや内容から、沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれています。

また、沖ノ島は島そのものがご神体です。ゆえに禁忌があります。
沖ノ島で見聞きしたことを口外してはならない「不言様(おいわずさま)」の禁忌。そのため、沖ノ島のことについては、祭祀遺跡が残されている以外、江戸以前の文献にはほとんど現れていません。
上陸するときは全裸になり海中で穢れを祓う「禊」をしなければならない、島から木や草、石のひとつも持ち出してはいけない、女人禁制、島内で四つ足の動物をたべてはいけない、など。現在でもなお守り続けられています。

文章担当あさみ(元メンバー)

参考資料

  • 古事記
  • 日本書紀

挿絵担当石ヰアケミ

参考資料

  • 古事記
  • 日本書紀

挿絵解説

海の青を基調とした色調で統一。
多紀理毘売命、多岐都比売命には名前の由来である霧と波を配置。市寸島比売命は琵琶を持たせました。弁天を意識して、裾には蛇を表す鱗紋様を。
鴉は、御鳥喰神事からの引用です。

宗像三女神に関連する神様

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