菅原道真

すがわらのみちざね

菅原道真

菅原道真の別名

  • 天神様

菅原道真の御神徳

菅原道真の伝承地

  • 福岡県大宰府
  • 京都府
  • 奈良県

菅原道真の継続

  • 菅原是善(父)
  • 伴真成の娘(母)
  • 島田宣来子(妻)
  • 覚寿尼公(叔母/大阪・道明寺)
  • 菅原高視(子)
  • 菅原衍子(子)など
  • 野見宿禰(十七代前の先祖)
  • 天穂日命(始祖)

菅原道真の鎮座

菅原道真の解説

すがわらのみちざね

菅原道真 菅原道真

道真の血統

始祖は天穂日命(あめのほひのみこと)であり、道真の十七代前の先祖が野見宿禰(のみのすくね)とされている。

野見宿禰は、現在の大阪府藤井寺市のあたりで、赤土と松樹を使って土師器や埴輪を作っていた。

当時は、皇族豪族が亡くなった際に、部下など生きた人間を墓に共に埋めることによって供養をする「殉死」という制度があったといわれており、
野見宿禰は、人の代わりに埴輪を埋めるように進言した功績が今も伝えられている。
その功績により、土師臣の姓を賜った。

また野見宿禰と当麻蹶速と力競べをした話も有名。

その後、道真の曽祖父が改姓を願い出て「土師」から「菅原」となった。

道真の生涯

幼いころは病弱であったようだ。
しかし、十一歳の若さですでに歌の才能を発揮し、十四歳の時に漢詩を作っている。

十五歳で元服、名を吉祥丸から道真に改め、十八歳で文章生の試験に合格(国家試験)。
時間を惜しんで勉学に励み、文章生の中でも特に優秀な人物として、文章得業生となる。
この時すでに、道真の文才は貴族社会に知れ渡っていた。

 

その後も順調に出世していき、三十三歳で式部少輔、そして文章博士となる。
この二官は、文章を司さどる職の中で最高位のもので、道真の祖父・父も同様に二官に任ぜられた。

これは非常に名誉なことなのだが、この頃から道真を妬む声や誹謗中傷が現れてくる。
父・是善は、道真の世間知らずな面、自尊心の強い性格を心配していた。

是善の存命中はまだ菅原家への風当りは柔らかかったが、道真三十六歳の時、父が亡くなり、状況は変わっていく。

 

四十二歳の頃、讃岐国司に任命される。
道真ほどの人物が、このように地方へ赴任させられるということは
あまりないことだったので、内心穏やかではなかったようだ。

四年後、任期を終えた道真は京に帰り、再び出世街道をひた走る。

五十歳の時、道真の進言により遣唐使が廃止される。

宇多天皇により、五十三歳で権大納言に任命される。
同じく、中納言だった藤原時平(二十七歳)が大納言となる。

二年後、時平は左大臣左大将、道真はついに右大臣右大将となる。

道真はこれについて、身に余るものとして、三度辞退を申し出ている。
破格の昇進が、周りに及ぼす影響を考えてのことだろう。

そして、時平と共に従二位に任命される。

 

しかし、わずか半月後、道真は太宰権帥(ごんのそち)として福岡県太宰府に左遷されてしまう。

この異変の首謀者は左大臣時平だった。

左遷された理由というのは、「政事要略」によると、
「大臣にとり立てられたにも関わらず、上皇を欺き、天皇の廃位を企てた」とある。

これは、時平側の策略であり、道真は無実の罪を着せられたと語られている。

大宰府に流された道真はわびしい生活を強いられ、心身ともに疲労し、五十九歳の生涯を閉じた。

道真の死後

道真が亡くなった年以来、京都では雷雨が相次ぎ、五年後道真の左遷計画に加担した藤原菅根が病死した。
その翌年、首謀者の時平も病死し、道真の後任で右大臣となった源光も死んだ。

時平は、比叡山の僧に、道真の怨霊除けに祈祷を頼んでいたが甲斐なしであった。

飢饉となり、病が流行した。
これらのことから、道真が怨霊となり復讐を果たしているという噂が、今日の町に広まった。

時平の死から十四年後、時平に縁のある保明親王が二十一歳の若さで亡くなった後、朝廷は、道真の左遷を取り消し昇進させた。

これは、道真の霊への謝罪であった。

しかしその後も一連の不幸は続いたため、更に七十年後、朝廷は道真を正一位、左大臣にし、同じ年に太政大臣の地位をも贈った。

道真の左遷に関わった者は皆この世を去った。

そして、天神へ

こうした流れの中で、天神信仰は始まる。

九〇五年、大宰府の安楽寺にて「天満大自在天神」として祀り、九四七年京都でも社が創建された。

最初は道真の霊を鎮めるために祀り始めたのであるが、もともとの道真というのは、才能に溢れた大人物である。

そのため、学問の神、和歌の神、書道の神、としてあがめられ、現在は全国に3000社を超える数の天満宮が存在している。

大宰府への道のり

大宰府への左遷の命を受けた道真公は、九〇一年二月一日に自宅を出立し、現在の京都・長岡京あたりから舟で淀川を下り、本州を海沿いに西へ向かい、山口県防府市より舟に乗られ福岡県築上町に上陸。
そこから北に向かわれ、太宰府にて残りの生涯を過ごされた。

左遷の道すがらに、立ち寄った先での道真公の様子がいたるところに残されており、
その場所に神社が建立されていることが非常に多い。

その一部をご紹介します。

<綱敷天神社由緒>

菅原道眞(すがわらのみちざね)公が、無実の罪により京都より太宰府までの左遷の際に、この地で今を盛りと咲いていた紅梅に目を留められ、それをご覧になるため船の艫綱(陸と船をつなぐ綱)を円く円座状に敷いてご覧になられ一時の休息を得られました。その由縁より、「綱敷(つなしき)」の名が興りました。

この時、菅原道眞公の従者、白太夫こと度会春彦の一族らをお側近くに召され、「この地に留まり、いつか戻るその日まで待つように」と御遺訓を残され、白江の姓を賜り、また自筆の御影とお座りになられた綱を与えられ、九州太宰府へと旅立たれました。

<道明寺天満宮>
この道明寺には、道真公のおば様であります覚寿尼公がお住まいになられていました。
無実の罪で九州大宰権帥だざいのごんのそちとして淀川を下られる舟の中でも、

世につれて浪速入江もにごるなり 道明らけき寺ぞこひしき

と詠まれ、道明寺の訪問を許されました。そして、この道明寺で覚寿尼公との別れを惜しまれ、八葉鏡にお姿を映されて犀角柄刀子さいかくえとうずで自像を荒木に刻まれ、

鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もがな

との御歌を残されて西海に赴かれました。
この歌から、道明寺に住む者は鶏を飼わないという信仰が続いています。

<大阪天満宮由緒>

菅原道真公は、九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになり、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向いましたが、2年後にわずか59歳でその生涯をとじました。その約50年後、天暦3年(949年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったと言われます。この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座されました。

大将軍社は、その後摂社として祀られるようになりましたが、大阪天満宮では、現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。

京都~大宰府までの各地にて、他にも多数の言い伝えが残っています。

文子天満宮

北野天満宮の境内に「文子天満宮」というお社があるのをご存知でしょうか?

道真の乳母に多治比文子という人がいました。
道真の没後、文子は「われを右近の馬場に祀れ」と託宣を受けました。
右近の馬場とは、現在の北野天満宮の場所のことです。

貧しかった文子は社殿を建立することができず、自宅に小さな祠を経てて道真をお祀りしました。
その後、他の者のところにも同じ託宣が相次ぎます。

947年(天暦元年)文子の建てた祠から御霊を移し、現在の北野天満宮が建立されることになります。

文子は、近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らと共に、
北野天満宮の創健者となったのです。

文子天満宮は、北野天満宮の境内社としてある他、元々自宅の祠があった場所(京都府下京区)にもお祀りされています。

文章担当森田明子

参考資料

  • 菅原天満宮
  • 北野天満宮
  • 道明寺天満宮
  • 綱敷天神社
  • 大阪天満宮

挿絵担当緋呂(ひろ)

参考資料

  • 太宰府天満宮

挿絵解説

学問の神としての重厚な威厳と、後に大怨霊となるほどの情念を一身の内に併せ持つ文武両道に秀でた存在、というイメージで描きました。

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