仁徳天皇

にんとくてんのう

仁徳天皇

仁徳天皇の別名

  • 大雀命(おほさざきのみこと)
  • 大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)
  • 大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)

仁徳天皇の御神徳

仁徳天皇の伝承地

  • 大阪府大阪市

仁徳天皇の継続

  • 応神天皇(父)
  • 仲姫命(母)
  • 菟道稚郎子(弟)
  • 磐之媛命(皇后)、八田皇女(皇后)
  • 黒日売(妃)
  • 履中天皇(子)、住吉仲皇子(子)、反正天皇(子)、允恭天皇(子)

仁徳天皇の鎮座

仁徳天皇の解説

にんとくてんのう

仁徳天皇 仁徳天皇

いにしえより「聖帝」として尊ばれている、仁徳天皇についてご紹介します。
大阪では特になじみの深い神様です。

弟・菟道稚朗子(うじのわきいらつこ)の自害

即位前の、仁徳がまだ大鷦鷯尊(以下名前の表記は全て日本書紀によるものとする)と呼ばれた頃のこと、大鷦鷯尊には大山守皇子という兄と、菟道稚朗子という弟が存在した。
父・応神天皇は菟道稚朗子を一番にかわいがり、皇太子としようと考えた。そのことにより、兄・大山守命による反乱が勃発するも、鎮圧される。

応神天皇の崩御以来、皇太子菟道稚朗子と大鷦鷯尊は延々皇位を譲り合い、 皇位が空のまま三年が経った。そんなある日、太子は崩御する。
この出来事について、記では 「宇遅能和紀郎子(菟道稚朗子)は、早く崩りましき」 という一文のみで済まされているが、紀では、太子は大鷦鷯尊に位を譲るために自害したとされている。

大鷦鷯尊は太子が自害したと聞き、驚いて難波から宇治にやって来る。
大鷦鷯尊は胸を打って泣き叫び、なすすべもないままに髪を解いて遺骸に跨り、招魂の儀を施された。
蘇生した太子に大鷦鷯尊は

「悲しきかも、惜しきかも。何の所以にか自ら逝ぎませる。 若し死者、知有らば、先帝、我を何とかも謂さむ」
(悲しいことよ、残念なことよ。どうして自殺なさったのか。もし死者に知覚があるものならば、先帝は私をどう思われるでしょうか)

と言った。
すると太子は大鷦鷯尊を慰め、遺言をし、また同母妹八田皇女を献じることを述べて薨じられた。 そこで大鷦鷯尊は、喪服をお召しになって悲しまれ、慟哭された。

聖帝・仁徳天皇

四年二月、天皇は高台に登って遠望した際に、 国の中に炊飯の煙が立っていないことに気付く。
人民の暮らしがひどく悪くなっていると考えた天皇は、 三年間全ての課税を免除することを決意する。
天皇は徹底しており、礼服や履物は破れ尽くさなければ決して新調せず、ご飯や吸物は、腐って酸っぱくならなければ取り替えなかった。
また、宮殿も、宮垣が崩れても造らず、茅屋根が壊れても葺かなかった。そのため、風雨が隙間から入って衣服や夜具を濡らし、星の光が壊れ目から漏れて、床や敷物を露わにした。

税を廃止してから三年が経った七年四月、天皇は再び高台に登った。 今度は煙が多く立ち上っていた。

天皇は皇后に「朕、既に富めり」 と語る。
それを聞いた皇后は「宮垣壊るれども修むること得ず。殿屋破れて、衣・被露なり。何ぞ富めるれと謂ふや(宮垣が壊れても、修理することができません。大殿も破れて、衣服や夜具が雨にぐっしょりと濡れています。それをどうして富裕になったと仰せられるのですか)」 と問う。

天皇は、

「其れ、天の君を立つるは、是百姓の為なり。 然れば君は百姓を以ちて本と為す。是を以ちて、古の聖王は、一人だにも飢ゑ寒ゆるときには、 顧みて身を責む。今し百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。 未だ百姓富みて君先貧しといふこと有らず」
(そもそも、天が君を立てるのは、人民のためである。従って、君は人民を一番大切に考えるものだ。そこで古の聖王は、人民が一人でも飢え凍えるような時は、顧みて自分の身を責める。もし人民が貧しければ、私が貧しいのである。人民が豊かなら、私が豊かなのである。人民が豊かで君が貧しいということは、いまだかつてないのだ)

と述べる。

古事記ではこの話はここで終わっている。国が富裕になり、税を今まで通り徴収する。 退廃した宮殿も元に戻すことができる。
日本書紀では更にこう続く。富裕になった人民達は、天皇に納税と宮殿の修復を願い出るが、天皇は忍耐して聞き入れなかった。
そして更に三年後、ようやく課税を再開し、宮殿を修復することにした。 人民達は命令されるまでもなく進んで、力を尽くして建造に励み、 まもなく宮殿はすっかり完成したという。

記紀ともに、文中にはっきりと「聖帝」の二文字が出てくるのはここの説話のみであることから、 後の世の人達もここを最も評価したと思われる。

大阪の治水事業を行う

天皇が行った治水事業をまとめると次のようになる。

<日本書紀>
・ 十一年十月 南の川を引き、「堀江」と名付ける。
北の川の洪水を防ごうとして「茨田堤」を築く。
・ 十二年十月 大きな溝を山背の栗隈県に掘って田を潤す。
・ 十三年十月 「和珥池」を造る。「横野堤」を築く。
・ 十四年十一月 猪飼津に橋を渡し、「小橋」と名付ける。(文献上日本最古の橋)
大きな溝を感玖に掘り、石川の水を引いて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦の四か所の野原を潤す。

<古事記>
上記の「堀江」「茨田堤」「和珥池」に加え、「依網池」「小橋江」「住吉の津」の造営

「堀江」は仁徳天皇が最初にした治水事業である。

仁徳天皇が治水事業を始めるにあたって群臣に言った、
「今、私は、この国を見ると、野や沢が広遠で、田や畑は少なく乏しい。また川の水は正しく流れず、下流は停滞している。少しでも長雨にあえば、海流が逆流して、村里は船に乗ったように水に浮かび、道路もまた泥土となる。そこで、群臣は共に視察して、横流する根源を深く掘って海に通じさせ、逆流を塞いで田と家とを安全にせよ」
という言葉から、難波入江に流れ出る百済川は、 大雨に遭う毎に氾濫していたようだと推測できる。

そのため仁徳天皇は、百済川の途中に「堀江」を造り、大阪湾と繋げることで、大雨の際に大量に流れる水を「堀江」で溜め、大阪湾に逃がしたのである。
この時代に、川と海とを繋げてしまうような大事業をしたというのは大きな功績である。

女性関係の話

1、応神紀十三年九月 応神天皇は日向国の美女・髪長媛を召したのだが、 息子である大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)が一目見て恋に落ちてしまい、妃となる。

2、即位後、二年三月の辛未朔の戊寅(八日)に磐之媛を皇后とする。
(皇后・磐之媛は、非常に嫉妬深い女性として描かれている)

3、吉備の黒日売という娘がとても美しいことをお聞きになって、 召し上げて使った。しかし黒日売は、皇后が嫉妬するのを恐れて、故郷の国に逃げ帰ってしまう。
天皇は、「淡路島を見ようと思う」と言ってでかけ、 淡路島からそのまま黒日売のいる吉備国に出向く。

4、二十二年春正月に、天皇は八田皇女を妃にしようとするが、 磐之媛は聞き入れようとはしなかった。
天皇は、皇后の不在中に八田皇女と結婚してしまった。
皇后は怒り狂い、帰還せずに、生まれ故郷の近くの山背の筒城岡の南に 宮室を造ってとどまった。
三十五年 磐之媛、薨去。
三十八年 八田皇女を皇后に。

5、四十年春二月 雌鳥皇女を娶ろうと考えた仁徳天皇は、異母弟・隼別皇子を使者として送ったのだが、隼別皇子は密かに自分が雌鳥皇女を娶ってしまう。
仁徳天皇はそれを知って隼別皇子を恨みはしたものの、皇后への遠慮や兄弟の義を重んじて忍んで罰しなかった。しかし、二人に謀反の心があることを知り、死刑に処する。

文章担当森田明子

参考資料

  • 古事記
  • 日本書紀

挿絵担当ササニシキ(元メンバー)

参考資料

  • 古事記
  • 日本書紀

挿絵解説

空に立ちのぼるカマドの煙を眺め、ひっそりと微笑む姿をイメージしました。

仁徳天皇に関連する神様

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