山幸彦

やまさちひこ

山幸彦

山幸彦の別名

  • 火遠理命(ほおりのみこと)
  • 天津日高日子穂穂手見命
  • 山佐知毘古
  • 彦火火出見尊

山幸彦の御神徳

山幸彦の伝承地

  • 日向地方

山幸彦の継続

  • 天津日子番能邇邇藝命(父)
  • 木花之佐久夜毘売(母)
  • 海幸彦(兄)
  • 火須勢理命(兄)
  • 豊玉毘売命(妻)
  • 鵜葺草葺不合命(子)

山幸彦の鎮座

山幸彦の解説

やまさちひこ

山幸彦 山幸彦

現代まで続く皇室の系統における神々の血縁を語る上でも重要な位置を示しています。
まずは、海幸彦・山幸彦の物語をおさらいしてみましょう。

海幸彦・山幸彦

海幸彦(火照命)・山幸彦はその名の通り、海ないし山でそれぞれ漁・猟を行い生活を行っていた事がわかります。原文を見てみますと、

故火照命者。爲海佐知毗古<…分註省略…>而。取鰭廣物。鰭侠物。山幸彦者。爲山侠知毗古而。取毛麁物。毛柔物。
(『新訂増補 国史大系 第一部10 古事記』,吉川弘文館,昭和39年,P.47)
※漢文はHPフォーマットの都合上、白文とした。

訳(以降、本ページにおける訳は註が無い限り、小山田宗治による)
火照命は海幸彦として、海の大きな魚、小さな魚を取って生活していた。山幸彦は山幸彦として山の鳥や獣を狩り生活をしていた。

とあります。いきなり脱線しますが、海幸彦が取った「鰭廣物(はたのひろもの)・鰭侠物(はたのさもの)」、山幸彦が獲った「毛麁物(けのあらもの)・毛柔物(けのにごもの)」は、平安時代に編纂された法律である律令の『延喜式』にて定められている、国の祭祀であった「広瀬大忌祭(ひろせおほいみさい)」にて奏上された祝詞に、神々へのお供え物としても登場しています。
話を元に戻しましょう。兄弟はある日、それぞれの漁猟生活において必需品であった道具を交換します。ところが山幸彦は、兄・海幸彦の釣鉤を紛失してしまいます。山幸彦は自分の剣を材料に沢山の釣鉤を作り許しを請いますが、海幸彦は自分の釣鉤以外は認めないと譲りません。さてさて、困ってしまいました。海辺で泣きながら居ると塩椎神(しほつちのかみ)が来て理由を尋ね、山幸彦は理由を話します。すると、塩椎神は助けてくれると言い、小舟を作り山幸彦を海へ送り出しました。小舟はやがて、宮につきました。ここが、綿津見宮です。山幸彦は塩椎神に言われた通り、城の井戸の近くにあった香木(かつら)と呼ばれていた木に登りました。すると、綿津見神(わたつみのかみ)の娘である豊玉比売命(とよたまびめのみこと)が水を汲みにやってきました。木に登っていた山幸彦を見た豊玉比売は一目惚れを起こし、父である綿津見神に報告します。この辺りの原文を見てみましょう。

乃見感。見合而。白其父。吾門有麗人。尓海神自出見云此人者天津日高之御子。虚空津日高矣。
(『新訂増補 国史大系 第一部10 古事記』,吉川弘文館,昭和39年,pp.48-49)
※漢文はHPフォーマットの都合上、白文とした。


(豊玉姫は)見ほれて心がひかれ、そして父に報告した。「宮の門に、イケメンが居ます。」と。すると、綿津見神は見て言った。「この方は、天津日子の御子で、虚空津日高(そらつひこ)だ。」と。

神代の昔から、「ただし、イケメンに限る」の法則があった事を示しています。山幸彦と豊玉比売は結婚して、綿津見宮で幸せな一時を過ごします。しかし、三年が経過した頃、山幸彦は悩んでいました。綿津見神は、その山幸彦に嘆いている理由をたずねました。すると山幸彦は海幸彦の釣鉤を無くしてしまった事を打ち明けました。すると、綿津見神は魚たちを集めて、釣鉤についての情報を収集すると、鯛の喉から発見するに至った訳です。釣鉤を返して貰った山幸彦は、いよいよ綿津見宮から地上に帰ることになりました。帰るとき、綿津見神は山幸彦に「塩盈珠(しほみつたま)」と「塩乾珠(しほひるたま)」を渡して、釣鉤を返す際にこう言えと山幸彦に語っています。

以此鈎給其兄時。言狀者。此鈎者。淤煩鈎。須須鈎。貧鈎。宇流鈎云而。於後手賜。<…分註中略…>然而其兄作高田者。汝命營下田。其兄作下田者。汝命營高田。爲然者。吾掌水故。三年之間。必其兄貧窮。若悵怨其爲然之事而攻戰者。出塩盈珠而溺。若其愁請者。出塩乾珠而活。如此令愡苦云。
(『新訂増補 国史大系 第一部10 古事記』,吉川弘文館,昭和39年,pp.49-50)
※漢文はHPフォーマットの都合上、白文とし、一部の漢字表記を変更した。


「この釣鉤は、淤煩鈎(おぼち)、須須鈎(すすぢ)、貧鈎(まぢち)、宇流鈎(うるち)」と言い、まじないをされよ。そして、兄(海幸彦)が高い所に田を作ったならば汝(山幸彦)は下に田を作りなさい。もし、兄が下に田を作ったのならば、汝は高いところに田を作りなさい。そうすれば、私(綿津見神)は水を掌り、三年間、兄の田の収穫に影響を与え貧しくしよう。もし、この事を怨み攻めて来たのならば、塩盈珠(しほみつたま)を出して溺れさせよ。そして、謝ってきたのならば、塩乾珠(しほひるたま)を出して助けよ。」と言って。

この部分は『日本書紀』神代下「海宮遊幸」条の一書では、「大鈎(おほじ)ススノミヂ(※原文は漢字表記)。貧鈎(まぢち)。癡騃鈎(うるげぢ)」(『新訂増補 国史大系 日本書紀前編』,吉川弘文館,昭和49年,P.95より)と釣鉤の名称が変っています。山幸彦は、綿津見神の諭した通りに事を運び、海幸彦を懲らしめました。その後、海幸彦の一族は宮廷の守護の任に就きました。

眞床覆衾(まとこおふふすま)

海幸彦・山幸彦の物語の後に、山幸彦の子を授かった豊玉姫は出産の為に、地上にやってきます。その際に、産屋を覗かないで欲しいと山幸彦に懇願して出産に臨みます。所が、山幸彦は覗いてしまい、その事を恥じた豊玉姫は子を放置して海へ帰ってしまいます。その子が、鵜葺草葺不合命(うがやぶきあえずのみこと)、神武天皇の父神にあたられます。『日本書紀』神代下「海宮遊幸」条の一書(第四)に、豊玉姫が海に帰る時の鵜葺草葺不合命の姿について、特徴的な書き方がされています。

遂以眞床覆衾及草褁其兒置之波瀲。
(『新訂増補 国史大系 日本書紀前編』,吉川弘文館,昭和49年,P.100)
※漢文はHPフォーマットの都合上、白文とし、一部の漢字表記を変更した。


眞床覆衾(まとこおふふすま)と草(かや)を使って、子ども(鵜葺草葺不合命)を包んで、渚に置いた。

ここで出てくる、真床覆衾(まとこおふふすま)について見てみましょう。真床覆衾の「真」は美称をさし直ぐ後ろの語である「床」にかかります。すなわち、尊い神聖な寝所をさすと言えましょう。そして、「覆(おふ)」は漢字の示すとおり「真床」を覆っている状況を示しています。最後の「衾」ですが、『倭訓栞』には次の様に記されています。

ふすま 紀に衾をよめり、また被衾をよめり、大被を衾とす、臥裳の義なるべし、臥裳は萬葉集に敷裳といへるがごとし
(「倭訓栞」『古事類苑 器用部二』所収,吉川弘文館,昭和54年,P.180)

床に敷いていた布の類いであることが分かると言えます。この「真床覆衾」は、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊が用いていた事が『日本書紀』に記されています。

于時高皇産靈尊以眞床追衾覆於皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊使降之。
(『新訂増補 国史大系 日本書紀前編』,吉川弘文館,昭和49年,P.64)
※漢文はHPフォーマットの都合上、白文とし、一部の漢字表記を変更した。


時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、真床追衾で瓊瓊杵尊を包み、地上に降ろした。

更には、山幸彦自身も用いた事がやはり『日本書紀』の一書に記されています。

於内床則寛坐於。眞床覆衾之上。
(『新訂増補 国史大系 日本書紀前編』,吉川弘文館,昭和49年,P.99)
※漢文はHPフォーマットの都合上、白文とした。


内床では、眞床覆衾の上にあぐらをかいて座った。

これらの例より、「真床追衾」が皇孫の「おくるみ」としての衣として大切な役割をしめしている事がわかります。この「真床追衾」は、更に践祚大嘗祭にて設けられる社殿、悠紀殿(ゆきでん)、主基殿(すきでん)の中の寝所に敷かれている衣と関係があるとも言われています。

文章担当小山田宗治(元メンバー)

参考資料

  • 古事記
  • 日本書紀
  • 古事類苑

挿絵担当高瀬若

参考資料

  • 古事記
  • 日本書紀

挿絵解説

山幸彦の名の通り、弓矢を携え山をかける猟師のイメージをベースにしました。
頭の赤い玉飾りは奥方の豊玉姫と交わした和歌から。

山幸彦に関連する神様

やまさちひこ

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